今、NHKの大河ドラマでは日本資本主義の礎を築いた「渋沢栄一」の生涯を取り上げています。
序盤のストーリーで、農民の息子であった渋沢が代官の理不尽な取り立てに怒る場面が描かれていました。
時代劇ではよく目にするシーンではあります。
私たちが学んだ歴史の教科書では、「江戸時代は、武士が支配階級をなし、食糧を生産する農民は、銭を扱う商人よりも高い身分に位置付けられた」と 学びました。
いわゆる「士農工商」です。
しかし近年の教科書からは「士農工商」の記述は減っているといいます。
武士が都合よく支配するために固定的な身分を作ったという説明も聞かなくなりました。
「江戸時代は国土が大きく町と村に分かれ、町に住む庶民は町人、村に住む庶民は百姓で、基本的に同格だった」と渡辺尚志・一橋大名誉教授は話します。
また大石学・東京学芸大名誉教授は「『士農工商』は家を単位に国家を納める『役』の違いで、国家に対する『役』という意味では平等だった」と説いています。
武士は軍事や行政で国家に奉仕し、農民は食糧を生産し、職人は物を作り、商人は流通を担いました。
「苗字帯刀」は武士の特権とされていますが、公に名乗れはしなかったものの農民も名字を持っていたことが分かってきています。
また「斬り捨て御免」にしても武士の側に相手の非を証明する義務がありました。
武士は形式上は政治を独占していましたが、政策実行の過程では世論に気を使い、百姓から意見を求めることもあったようです。
江戸時代の武士は、中世の強い私権を持った武士とは、大きく性格が異なっていたというわけです。
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【身分の垣根にも緩さがあった】
農業の知識を農政に生かすため、武士に登用された農民もいれば、浄瑠璃作者の近松門左衛門のように武士の家に生まれながら芸能者として生きた例もあります。
百姓の跡取り以外が町に出て商工業に就くこともあり、『家』は身分で固定されていても、個人は渡り歩くことが可能でした。
上下関係ばかり厳しくては社会が持ちません。
「江戸時代が265年も続いた理由の一つには、緩さがあった」と大石名誉教授は話しています。
知れば知るほど「江戸時代」の265年が今の私たちに「生きるヒント」を投げかけているようで、一層魅力を感じているところです。
今世界では、独裁や全体主義といった、互いを監視しあう、自由を奪われた国が台頭しています。
経済的恩恵と引き換えに、自由を奪われた人間社会が、どのような歴史的変遷をたどるのか、注視していこうと思っています。