団塊おんじ 人生100年時代を行く!

長く生きるかではなく、どう生きるかの試行錯誤録

新たに独立を果たした国への支援

 23日のオリンピック開会式を見ていて、自分の知らない国のあまりの多さに驚きました。

 

 私が無知であると言ってしまえばそれまでですが、独立国の数がいかに増えているかに気付かされます。

 

 かつて植民地支配もしくは信託統治取り決めのもとにあった100カ国近くの国々が、国連が1945年に創設されて以降、次々と独立を果たしてきました。

 

 国連は植民地主義を早急に終わらせたいとの目標のもと、独立を促してきた歴史があります。

 

 しかし独立を勝ち取ったまではいいものの、特に他国が望むような資源を持たない国は、国民の経済的自活を達成するのは容易ではありません。

 

 今回ウガンダから来日した選手の1人が宿泊先のホテルから行方不明になったニュースが話題になりました。

 

 彼は「貧しい母国に帰りたくない、日本で働きたい」とメモを残して名古屋に向かいました。

 

 その後、発見されてオリンピック開催前に、帰国することになります。

 

 先進国・後進国を問わず“貧困問題”はどこの国にもありますが、オリンピックを機に日本で働くことに活路を見出そうとしたジュリアス・セチトレコ選手(20)の思い切った行動には複雑な思いがします。

 

 ただお金を出すだけでは解決しない経済的自立支援ですが、日本人は予てからいくつもの国に、ソフト面で自立を手助けしてきました。

 

 モーリタニアに対する支援事例を紹介します。サンパウロ市在住の酒本恵三さんが寄稿したものです。

 

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   Bessiさんによるpixabayからの画像

 

【モーリタニアを貧困から救った日本人】

 

アフリカ北西部に位置するモーリタニアは、人口はおよそ300万人。国土の9割は砂漠で覆われており、砂漠と大西洋に沈む夕日を楽しめます。


平均月収はおよそ2万ウギア、円に換算すると7千円弱です。2011年のある日の事です。モーリタニアにある日本大使館に、ひとりの男性がやってきました。「日本に、これを…」。

 

彼が差し出したのは、お金。それは東日本大震災への寄付金でした。

 

全額は5千ウギア。日本円だと1700円。しかし、彼にとっては月収の4分の1にも当たる大金でした。職員が「あなたのお名前は?」と聞くと、「私は日本の友人です」というのです。


その後も多くの国民が寄付をするために日本大使館を訪れました。その誰しもが「日本人への恩返し」と口にしました。寄付金は総額4570万円にものぼりました。なぜ遠く離れた日本のために、彼らはそこまでしてくれたのでしょうか。

こには、モーリタニアと日本の深い絆が隠されています。


1960年、アフリカの植民地が相次いで独立、アフリカの年とも呼ばれています。他の国と同じくモーリタニアもフランスから独立を果たしましたが、国を支える主な産業がないため、国民は貧困に苦しんでいました。


この独立間もない国に救いの手を差し伸べたのが、当時の日本政府でした。

 

水産庁、外務省が全面的に協力して、モーリタニアの漁業を振興してほしいと、一命を受けたのが、中村正明さんでした。

 

「中村君、申し訳ないがモーリタニアに行ってくれないか?」「モーリタニア…ですか?」。JICA及び海外漁業協力財団から派遣されて、世界各地で漁業指導を行っていた中村がその国に足を踏み入れたのは26歳の時でした。


当時のモーリタニアは、大西洋に面しているのにも関わらず、漁業という産業が存在しませんでした。主食は羊やラクダなどの肉。魚介類を食べる習慣がなかったのです。人々の貧困生活を目のあたりにした中村は、日本の漁業技術を教え、国を豊かにしようと考えました。
 

しかし、本格的漁業を立ち上げるには、金もモノ(船)もヒト(漁師)もいません。それはたった一人でのプロジェクトでした。


「絶好の漁場があるじゃないか」――彼はさっそく、海の近くの住民を集め、自分の思いを伝えました。


「ここには良い漁場があるんです。だから明日の朝4時ここに集合してください」


しかし、翌朝、誰も来ませんでした。彼らには時間に合わせて行動するという習慣がありません。ましてや相手は得体の知れない日本人です。


しかも、まだ日が昇る前に暗がりを歩くのは治安の上でも危険です。

 

それでも中村は、あきらめませんでした。みんなで漁業をやろうと説得しましたが、住民らは「魚なんて売れるわけがないさ」と誰も彼の話を聞こうとはしませんでした。


「なんでわかってもらえないんだ…」。中村は嘆きました。ですが、あきらめるわけには行きません。

 

今度は住民一人ひとりに対して漁業の必要性を熱心に説きました。訴え続けること3カ月、なんとか3人集めることができました。


「ようやく前にすすめる!」。そう思った中村は、集まってくれた3人に一生懸命こう説明しました。


「この中に魚が入って、これを上手く獲れたら皆さんの生活が潤うんです。わかりますか」

 

中村の指導によってなんとか魚は獲れたものの、まだまだ漁の初心者。船も小さいものしか用意できず、思っていたほどの成果は上がりません。せっかく集まった人たちも一人、また一人とさっていきました。


「どうしたらいいんだ。こんないい漁場が広がっているというのに」。肩を落としたその時、何かが目に入ります。それは海岸に捨てられているタイヤでした。手に取って中を見た中村は、「これだ!」とひらめきました。


そこには生きたマダコがいたのです。モーリタニアの海には、上質なマダコが多数棲息していることに気づきました。国を救う一大産業になる可能性を見出した中村はワクワクしました。


「今日からタコ漁を始めましょう!」。しかし住民は思いがけない反応を示します。


「そんな気持ち悪いもの、獲ってどうするんだ?」


彼らはタコを食べないどころか、タコは「悪魔の使い」として触ることすら嫌がっていたのです。


「あなたたちが食べなくても、他の国に輸出できるんです!」
「そんなもの、どうやって獲るんだ?」
「いいものがあるんだす、日本に!」

 

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 中村は日本からタコ壺を取り寄せました。これならタコに傷がつかず、漁法も壺を沈めて引き上げるだけなので、素人でも漁をすることができます。


 タコ壺をためしに使ってみると、初日にもかかわらず、中村の予想通り、良質なマダコが20匹も水揚げされました。当時の相場だと、売値はおよそ2万7千円。モーリタニアでの平均月収4カ月分、米なら100キロ以上買える金額でした。


「こんなにもらっていいのか?」と住民たちは驚きをかくせません。
「もちろんだ。君たちが稼いだお金だからね」と中村はにこりと微笑みました。


その後、住民たちはやる気をだし、タコ漁師の収入は、公務員の5倍にも達し、漁をする人たちが続出しました。

 

さらに、現地でタコ壺製造工場が20カ所以上も誕生し、漁以外にも新しい産業が生まれました。

 

いまやモーリタニアの水産物輸出のおよそ86%がタコです。日本が輸入するタコの35%を占めており、堂々のシェア1位!!


スーパーマーケットではモーリタニア産のタコをよく見かけます。タコの売り上げによって入る外貨は、年間100億円以上になりました。タコ漁はモーリタニアの主要産業に成長し、今では国の収入の約半分を占めています。


中村さんは、当時のことを振り返ってこうはなします。


「本当に忘れられない国となりましたね。今、モーリタニアと日本との間で、絆がうまれ、日本の遠洋マグロ船団を、特別に自国の海域に入れてくれています。それもやはり、モーリタニア政府の日本に対するお礼だと思います」


中村さんは、モーリタニアに住んだ最初の日本人でもあります。2011年には、モーリタニアの大統領から、国家功労勲章というのを授与されました。モーリタニアで最も有名な日本人となり、人々は感謝を忘れることがありません。


子供に中村さんの名前を付ける人が増え、今でも「ナカムラ」「マサアキ」さんがモーリタニアには沢山いるのです。文化も習慣も違うモーリタニアと日本を結んだのは、ひとりの日本人でした。(インターネットより)

 

 同じ日本人として、このような支援をした中村正明さんに拍手を送りたいと思います。