団塊おんじ 人生100年時代を行く!

長く生きるかではなく、どう生きるかの試行錯誤録

また地方の老舗百貨店が消えた

  先日名古屋の老舗百貨店「丸栄」が店仕舞いしたことを知りました。

 

 その時、「ついにこの日がきたか」という思いにかられました。
私は名古屋の地に直接縁があるわけではないのですが、学生時代の同級生が丸栄に就職し、現役時代に出張などの際に何度か訪れたことがあったのです。

 

 バブルが崩壊した後には、ずっと売上が低迷していたそうです。

 

 10数年前になりますが、出張の際に店を覗いたことがありましたが、2階に上がるとそこに「100円ショップ」があるのをみて愕然とした記憶があります。

 

 それから随分と経つわけですから、よくぞ今日まで頑張ってこられたものだという感想を持ちました。


 聞けば若い女性(ギャル)に照準を当てて、他店と差別化を図っていたようです。


 大消費地の名古屋だからこそ、ここまで頑張ってこられたのでしょう。

 

 長年この百貨店が好きで買い物に通っていた中高年の女性客が、閉店が迫る中、それを惜しむように店の馴染みの店員と会話を交わすシーンがテレビで報道されているのを見て、本当に地元に愛されていた百貨店だったのだなと感じました。

 

 私の友人は、とうに定年退職していますが、この報を知ってどんな想いでいるのかなと思っています。

 

 全国各地でこれまでも同じようなケースがありましたが、家内の親戚が住んでいる栃木県の県庁所在地・宇都宮市でも、かつて北関東で最初に開業した「上野百貨店」が2000(平成12)年に店を閉じました。

 

 この百貨店は地元の人達から「上野さん」と呼ばれ親しまれていました。隣には二荒山神社があり、家内も子供の頃に、お参りをして参道を降りると上野百貨店で食事をしたり、買い物をしたりした思い出があるようです。

  

 先日家内が法事で宇都宮に行った時に、「ついに上野さんの建物も取り壊されて何もなくなっていたわ😢」と嘆いていました。

 

 買い物を娯楽と位置付けている人達も一部となりつつあり、若い人を中心にネットで必要なものを購入する動きは強まっています。


また中古品をネットで売買する中古品市場も侮れません。

 

 モノを売る場としての役目にも限界がきています。地方経済の疲弊が続く中で、地方百貨店はこのまま衰退の道をたどっていくのか、正念場を迎えて、これからは業態のあり方そのものも問われることになりそうです。

 

 私などは滅多に百貨店には行きません、行くとしてもハレの日に地下の食品売り場を冷やかしに行くくらいです。

 着るものはユニクロやせいぜいヨーカドーで間に合っていますから😊。

 

 

江戸の人たちはどんなお酒を飲んでいたのか

  公民館の歴史講座で「江戸の人たちはどんな酒を飲んでいたのか」というテーマだったので、興味をそそられて受講しました。

 

 講師は元役人でお酒が好きな方のようで、退官後全国のお酒を飲み歩いているというから羨ましい限りです。


 日本神話の話から始まり、多少前置きが長かったのですが、そもそもお酒は祭事やお祝い事の時に飲まれるものだったということでした。

 

 酒の起源は幻覚剤で、古代のシャーマニズム文化と共に始まったのではなかろうかといいます。

 

 例えば今でも南米では、キノコ類を噛むチューイングをやることで、トランス状態になっています。その後、「口かみ酒」が生まれ、次第に酒というものへと移行して、それが儀式の酒として残っているのだといいます。

 

 

  江戸初期にはほぼ確立されていた酒造りの技術は、その後三百年の間にさらに洗練され磨き上げられます。

 

 江戸の後期になって江戸近郊で醸造業が発展するまで、江戸で飲まれる清酒の大半は大阪(池田・伊丹・灘)などの上方から、大きな樽に入れて樽廻船で運ばれてきました。下り酒と呼ばれたものです。


 その量は、年間80~90万樽(1樽=3斗6升)にもなったそうです。

 

 講師の調べによると、江戸時代の清酒の値段は1升230文くらいだったようです。

1文が20~25円(時代により変わります)で計算すると、4600円~5750円ですから庶民には手が出る値段ではありません。庶民向けの安酒は60文で1200円~1500円くらいです。

 

 庶民向けの安酒とはどんなものか興味が湧いたので調べてみました。

 

 「どぶろく」のような酒は想像できますが、浮世絵などに出てくる庶民が行く飲み屋の光景を見ると、清酒を飲んでいるようです。

 

 そもそも、江戸時代の酒は今のアルコール度数の半分くらいで、安い酒はそれをさらに水で薄めていたともいわれています。水で薄まった度数の低い酒を飲んで「昨晩は一升酒を飲んだ」といっても、実際の量は今の五合程度だったのですね😊。

 

 いずれにしても、江戸時代の人々はよくお酒を飲んでいたようです。

 

 そこで思い出したのが、若い頃に読んだ「元禄御畳奉行の日記(中公新書・1984・神坂次郎 著)」でした。

 

 元禄の尾張藩士、朝日文左衛門が26年8ヶ月に渡って記した日記、「鸚鵡籠中記」に基づいて書かれたものです。

 

 武芸十八般はからきしダメ、月に数日仕事をして、暇にまかせて酒飲み、大好きなのは芝居に浄瑠璃、女に賭け事、釣りに詩文に噂話。

 

 日々お気楽に生きたサラリーマン武士の朝日文左衛門、書かれているのは、ほとんどが接待に関するもので、その結果飲み過ぎて吐いた事までマメに日記につけています。この時代も役人天国だったことが分かります。

 

 関ヶ原から100年経った元禄の世、平和ボケした中流武士の姿は今の役人や酔いどれサラリーマンと重ね合わせてしまいます😊。

他の人のことが気にならなくなった

   最近他の人のことが気にならなくなりました。もともとそういうところはありましたが、ますます顕著になってきたような気がします。

人だけでなく「自分がコントロールできないことは気にしない」ことにしました。

 

 若い時は人の目ばかりを気にしていました。自分に自信がないこともあり、周りの人が自分をどうみているのかが気になっていたのだと思います。

 

 社会に出てからは「仕事が人生の中心」という生き方をしてきました。

仕事を終えてからも、職場の仲間と夜遅くまで酒場にたむろして、終電に慌てて駆け込むといった生活を繰り返していたのです。

 

 職場仲間が感じている本音は、飲む席でないと聞けないと思い込んでいたのでしょう、定番の上司の悪口を含めて、酔うほどにいつまでも仕事の話に花を咲かせました。

 この頃は、寝ても覚めても仕事のことばかりという日々を過ごしてきたような気がします。自分の仕事の進め方、考え方に間違いがないかどうかを、周りに確認することで安心したり、反省したりしていたものです。

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    しかし結婚して子供が出来てからは、「子どもが3歳になるまでは、早く家に帰って、子供が寝てしまう前に少しでも接する時間を作りたい!」と考えるようになりました。

 周りの飲み仲間にもそれを宣言して、誘いを度々断るようになったのです。

 

 仕事にも少し自信がついてきたせいか、この頃から職場の人との付き合い方にも、自分の考え方を取り入れるようになってきました。

 

 今でこそ「ワークライフバランス」などということが当たり前の時代になってきましたが、私の現役の頃は一つの組織で職業人生を全うするというのが普通でしたので、公私の境なく仕事上の付き合いが入り込んでいたような気がします。

 

 子供の誕生がきっかけだったのかも知れないのですが、一部の上司の過度の介入への反発などもあり、これからの仕事への向き合い方や今後の人生をどう生きるかを真剣に考えるようになったのです。

 

 60歳で定年を迎えた時に、担当していた仕事の区切りをつけるために、半年ほど延長して働いたのですが、引き留められるのを固辞して、辞めることにしました。

 

 残留して雇用延長の道を選んだ同期からは「辞めて、これからどうするのか」と聞かれたのですが、その時にはあまり先の事を考えていませんでした。

 

 残りの人生を、これまでの延長線上で考えたくないという気持ちが強く、今決まっていなくても、どうにかなるだろうと思っていたのです。

 

 辞めてからの約半年は、憧れてもいた「毎日が日曜日」生活を体験しました。家内は不安がっていましたが、この半年の「何もしない、やりたいことしかしない」生活は、自分自身を見つめる上で貴重な時間でした。

 

 何よりも良かったのは、それまで自分に纏わりついていた「しがらみ」のほとんどが取り払われたことです。

 時折嫌でも耳に入ってくる「知り合いの動向」なども全く関心がなくなり、「人は人、われは我」という境地に立つことが自然とできるようになったのです。

 

 ただ分かってきたことは、他の人と関わらないということではなく、適度な距離感の中で「人のために自分ができることはしていく」ことでした。

 

 これが心身のバランスをとる上で、大事なことなのだと気が付いたのです😊。

唯一無二の女優・樹木希林が逝った

   生きるって自分にとって、どういうことなのか改めて考えさせられています。そのきっかけになったのが先日の樹木希林さんの逝去でした。最後まで役者として第一線で光り輝く演技を披露してくれました。

 

  役者人生という面では、誰もが認める功績を残したわけですが、全身ガンに蝕まれる中で、それでも唯一無二の演技を披露し続けることができる原動力はどこから来ているのだろうと思います。

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最近の映画2作品での対照的な演技は印象に残るものでした。一つは2018年5月19日公開の「モリのいる場所」です。


 30年もの間、ほとんど家の外へ出る事なく庭の動植物を観察して描き続けたという伝説の洋画家・熊谷守一(モリ)夫婦の晩年の1日を、フィクションとして描いた作品です。

 主演の山崎努が監督の沖田修一に、「こんなおもしろい人がいるよ」と伝えたことで映画化が実現したようです。
 雑誌に山崎が熊谷守一についてコメントしたものを読んだことがありますが、山崎努は熊谷守一の生き方・考え方にとても心酔していたようです。

 

 主演の山崎と軽妙でユーモラスなやりとりをする奥さん役の樹木希林は絶妙の演技を披露していました。

 

 二人は同じ文学座に在籍していますが、50年以上の時を経てこの映画で初共演とのことで、完成後山崎努は樹木希林に感謝の言葉をかけたそうです。

 

 もう一つの映画はカンヌ映画祭パルムドール受賞作品の「万引き家族」です。

 

 家族を超えた絆を描く衝撃の感動作でした。ここではしたたかな婆さん役、入れ歯をとってのシリアスな演技で「モリのいる場所」とは対照的な好演技でした。


 映画の中で、亡くなる前日に皆で海水浴に行った浜辺で、寂しそうに海を見つめているシーンが忘れられません。

 

 最近はテレビや雑誌で頻繁にインタビューに応えていましたが、肩の力を抜いた自然体の様子は、今にして思えば、死が迫ろうとする中で視聴者や読者にお別れを言っていたのかも知れないと思ってしまいました。

 

 亡くなる直前まで、周りに穏やかな笑みで接していたそうです。      合掌。

 

昔の人は健脚だった

   松尾芭蕉と随行者の曽良は出羽三山(月山、湯殿山、羽黒山)を一昼夜で踏破してしまったと何かの講演で聞いた記憶がありました。

  その後私は月山に登る機会があり、その大変さを身に染みて感じたものでした。その体験から、芭蕉達の三山の短時間踏破の話は、本当かなと疑問に思っていました。

 

 先日近くの公民館の「歴史講座」が開かれ、「奥の細道」がテーマに取り上げられることを知り、早速申し込みました。

   当日になり講師の先生は「このテーマは本来1年かけて講義するテーマなのに、1時間や2時間で話すのは無理だ」と主催者側に不満を述べました。それでも講義に入ると丁寧に説明してくれました。

 

   しかし時間がなく江戸を出発してから白河の関までの説明で終わってしまいました。そこで終了後に講師に直接訊いてみることにしました。

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   講師曰く「芭蕉と曽良の二人は、まず月山に登り、頂上で笹の葉を布団がわりにして野宿をしました。翌朝月山を下りると、湯殿山を踏破し、その後羽黒山に着いて宿坊に泊まったそうです。羽黒山に登った後、酒田方面に向かうのですが、途中で芭蕉は疲労で倒れてしまいます。何とか酒田に着いたのですが、地元で開かれる予定だった句会は中止になってしまったのです。」とのことでした。

 

 いくら健脚だったとはいえ、出羽三山を一気に踏破するというのは無理があったのでしょう😊。

 

   昔の旅のスタイルは、宿にその日の昼の握り飯を作ってもらい、七つ立ちで(季節によって違うが午前四時頃)出発します。ひたすら歩くわけですから、出で立ちは軽装、最低限の荷物にします。

  一日の平均歩行距離は10里(約40km)くらいだったようです。雨が降ると宿や茶店で蓑と笠を借りて歩きます。雨が上がると次の宿、茶店で返すのですが、借り賃の7~8割が戻ってくるというシステムだったようです。

 

 昔は遠方への旅をするということは、様々なリスクを負いながらの旅であることを認識する必要があったのでしょう。旅の途中で命が果てることもありえ、二度と戻ってこられないということも覚悟する必要があったと思います。

 

 今は徒歩の旅をするといっても、そのような覚悟を持つ必要はありませんが、大変な思いをすることは確かです。

 

 現代での長い徒歩の旅というと、四国八十八か所のお遍路旅を思い浮かべます。全行程約1,200㎞、50日前後はかかる旅です。

 

 知人が定年後、何回かに分けてお遍路旅を完遂しました。お祝いと報告会の会合があったので、出席しました。久しぶりに会ったその知人は、以前に比べ身が引き締まり、日焼けした笑顔が眩しく映ったのを思い出します。

 

 一方高校時代の友人は、教師を定年退職後東海道五十三次の旅にチャレンジしました。日本橋を出発して5日ほどかけて三島宿までたどり着いたそうですが、そこで断念して帰ってきてしまったとのことでした😊。

 

 私などはそのようなことにチャレンジする気にもなれません😢。

 

時代劇は健在なり

先日実家に行った時、父親に付き合ってBSで放映されている時代劇を見ました。ふた昔前の番組の再放送です。

すでに亡くなった役者が登場していたりして、懐かしい思いで見終わりました。

 

 以前、午後3時から水戸黄門の再放送が放映されていた頃は、庭仕事を終え午後3時になると、テレビの前にどっかと腰を下ろし、水戸黄門の番組を見ていました。その後共同浴場に行って入浴を済ませ、午後5時過ぎには夕食を済ませ、6時には床につくという生活スタイルでした。

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 水戸黄門シリーズの放送が終わってしまってからは、適当な時代劇番組がないと嘆いていました。確かに地上波のチャンネルでは、夕方の時間帯で時代劇などはどこも放送していません。

 

 私の実家は山の中ですので、当時はBS放送を見るなど考えもしませんでした。その後テレビを買い替えたことを機にパラボラアンテナを取り付け、BS放送が見られるようになりました。

 

 しかしその後何年かは、地上波チャンネルしか見たことがない習慣を変えられず、BSには手つかず状態だったのです。

 

 3年ほど前、BSチャンネルで夕方の時間に時代劇の再放送番組が放映されていることに気付いた私は、父にそのことを伝え、操作方法を教えてあげました。

 

 最近では寝る前の時間を、BSの時代劇や歌番組を見て楽しんでいるようです😊。

 

 私の父に限らず高齢者を中心に、時代劇ファンは少なくないのではないでしょうか。

 

 確かに新作の時代劇の映画・テレビドラマは激減しています。しかし例えばここ1~2年で、時代劇コミック誌は増え始め、現在は5誌ほどがしのぎを削っているようです。

 

 また小説の分野でも、池波正太郎氏をはじめ人気時代小説作家の作品は根強い人気がありますし、私もシリーズ全巻を読んでしまった佐伯泰英氏の代表作、「居眠り磐音」江戸双紙シリーズは累計2000万部を突破しています。

 

 通勤の行きかえりに、何も考えずに小説の世界に没頭するには、最適の本でした😊。

 

 人情や親子が双方を想う心、貧乏長屋のおせっかいや助け合う行為など、題材は様々ですが、いつの世にも変わらぬ世界を描く時代劇は、これからも廃れさせてはいけないと思っています。

地域おこしと道の駅

   平成の時代も終わろうとしています。30年前の平成元年に、岐阜県の平成(へなり)という町が、平成の時代が始まることに肖って、大々的に地域おこしを計画したそうです。


  当時人気の絶頂期だった女優の三田佳子さんをオープニングセレモニーに招いて挨拶をさせるなど地域は大いに盛り上がりました。

 

   しかし30年前といえば、まもなくバブルがはじけ(平成3年)、日本は長い長い不況へと突入していく時期だったわけですから、地域おこしの計画もうまくいきませんでした。ただ道の駅だけは、今も健闘して頑張っているようです。

 

 そういえば道の駅は2018年4月現在で、全国に1145か所もできています。

 

   麻生首相の時代に高速料金がどこまで行っても1000円という時代(2009年3月から2年間)がありました。この時は休暇を使い、しょっちゅう車で遠出をしたものです。当時も各地に道の駅はあり、車を走らせながら道の駅の表示を見つけると、期待して立ち寄りました。しかし地場の野菜などは置いているものの、それ以外に惹かれるものはあまりありませんでした。

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   ところが近年各地の道の駅が、魅力度を大いに上げてきました。ご当地自慢の生鮮品を始め、そこで採れた果物を使ったスウィーツやソフトクリームなどなかなかのものです。

 

   またB級グルメブームなども手伝って、ご当地グルメを食べられるコーナーや、新たにご当地ラーメンなども開発され、話題になっています。

 

 まさに地元の情報を発信する拠点として位置付けられようともしています。

 

 また食材の販売や食の提供にとどまらず、複合施設としてレジャー施設や立ち寄り湯など短期滞在型の道の駅も増えています。

 地元の自治体が関与するケースも多く、いまや道の駅は地域おこしの象徴的な存在になっているようです。

 

 いよいよ秋本番です。秋空の中を話題の道の駅を目指し、ドライブに出かけてみるのもいいですね😊。