米軍がアフガニスタンからの「撤退終了」を宣言しました。
日本政府は、大使館やJICAで働くアフガン人職員と家族等約500人の国外退避を目指して自衛隊の輸送機3機を派遣しました。
しかし、邦人1人を退避させただけで、アフガン人協力者らは取り残されたままです。
積み残しが多く出た今回の退避作戦に影を落とすのが、初動の出遅れです。
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日本の救出活動を辿ると、他のG7諸国などと違い、内外の調整に手間取り、タリバンによるカブール制圧の前後に自国の軍用輸送機(日本の場合は自衛隊の輸送機)を送り込めなかった問題があります。
ちなみに、外務省は17日、「(カブールにある日本)大使館員12名は友好国の軍用機によりドバイに退避した」と発表した。が、実はこの時、日本が支援要請した友好国のうち最も早くカブールを発った英国軍機に便乗したのだという。当時、英国の名前を伏せたのは、英国に支援要請が殺到する事態を避けるためだったといいます。
その後、遅ればせながら、日本が自衛隊機の派遣を決めたのは23日のことです。
他国に遅れること11日、ようやく26日にカブール国際空港に自衛隊機を送り込み、隣国パキスタンに邦人らを輸送するとしていました。
しかし、このタイミングは、ベルギー、オランダ、フランスなどの欧州諸国が、相次いで自国民の空からの脱出作戦の完了を公表した日と重なります。
そして、この日、実際に問題のISの自爆テロが勃発。自衛隊機に乗ろうと20台以上のバスに分乗してカブール空港を目指していた人たちが断念して引き返したと伝えられています。
結局、26日に退避を支援できた14人は、米国が保護した人たちだけだったようです。
この日の救出作戦が難航した要因としては、自衛隊法の制約で自衛隊がカブール空港の外に出て、避難を求める人々を警護できなかったことが大きく影響しました。
同時に、カブール陥落以前から、現地の情勢が日に日に緊迫の度を増していたにもかかわらず、自衛隊機の派遣が遅れ、残された最後の10日あまりの日々を有効に活用できなかった問題も大きいでしょう。
この点も今後の大きな反省材料になります。
最後の最後まで、初動の遅れを取り戻せず、25日以前に多くの人を救出できなかったことが仇になったことは否定できません。
外務省関係者は「日本は『自衛隊は最後の手段』とする政治文化がある。これが遅れにつながったとすれば反省材料だ」と漏らしているといいます。