長崎の14歳の女の子の投稿を目にしました。
「自由な昭和 うらやましい」というタイトルに「おやっ」と目が引き寄せられました。
以下、投稿された文面を紹介させていただきます。
昭和生まれの母は、自分が子どもだった頃の話をよく聞かせてくれる。
友達と遊ぶ時に黒板で伝言をやりとりしたこと、冬の寒い日は制服の下にジャージーを着てわいわい登校したこと、倉庫にお菓子を持ち込み,キャンプをしたこと……。
全てがおおらかで自由に思え、うらやましく感じる。
今の時代、人々は外で遊ばず、まるでゲームやスマホに取りつかれているようだ。
将来、私たちが働き始める頃には、仕事はAIに取って代わられ、もっと家に閉じこもってしまうのではないか。
便利な時代と言う人もいるだろうが、私はつまらない、と思ってしまう。
便利さは、人の触れ合いなど多くの大切なものを奪っていくのかもしれない。
だから私はよく思う。
昭和に生まれたかった。
( 以上 )
Dim Houさんによるpixabayからの画像
14歳といえば多感な年ごろです。
コロナ禍のなかで、児童・生徒たちはこの1年半、いろいろな行事が中止になったり、ステイホームを強いられたりで、友達と外で思いっきり遊んだりできなくなってしまいました。
そればかりでなく、自分の将来の働くイメージのなかに、AIに仕事を奪われ、一緒に仕事をする仲間との触れ合いが失われてしまうのではないかという漠とした不安を感じているようです。
彼女の「全てがおおらかで自由に思える」昭和、というのは第二次大戦後に生まれたであろう母親が、右肩上がりで成長を遂げた時代の「明日は今日より良くなる」という、将来に希望を持って青春時代を送った時代の様々な思い出を伝えられたイメージなのだろうと思います。
全てに“非接触”の生活を要求され、友と将来について語り合う、といった機会も極端に少なくなった中では、何に希望を見出していけばよいのか。
我々大人たちは、それぞれの立場から、彼女のような不安を抱える人たちに、希望を持つことの大切さを伝えていかなければならないと思った次第です。