昨夕、散歩をしていると神社の林からカナカナカナというヒグラシの鳴き声が聞こえてきました。
7月のこの時期に、ヒグラシの鳴き声を聞くことはなかったので、オヤっと思い、しばし佇んで聞き入ってしまいました。
私は幼いころに、山間の清流の傍にある家で育ちました。
夏になると川から心地よい風が吹いてきて、畳にゴロンと横になると、そのまま寝入ってしまうことがよくありました。
そして長い昼寝から目覚めたとき、ヒグラシの鳴き声が川の反対側の林から聞こえてきて、一日の終わりを告げているような「物悲しい鳴き声」と川の流れのハーモニーが、身に沁みついています。
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都市部に住むようになって、ヒグラシの鳴き声を聞く機会はめっきり減ってしまいましたが、それでも実家に帰った時や、旅行に行った先などで、カナカナカナという鳴き声を聞くと、幼い頃に感じたあの感覚が、その都度蘇ってきたものです。
晩年を迎えた今となっては、若い時に感じた以上に「人の哀れ」や「物悲しさ」を鳴き声の中に、一層感じるようになってきました。
辞書を引くとひぐらしは、朝から晩まで、一日中、ひねもす、といった意味もあります
徒然草にも、「つれづれなるままに、ひぐらし、硯⁽すずり⁾に向かひて」という序文の一節があります。
することもなく手持ぶさたなのにまかせて、一日じゅう硯に向かって、といった意味です。
これからの残された人生は、手持無沙汰にまかせて、一日中それほど意味を持たないことに没頭する「ひぐらし生活」といった過ごし方が増えていくのでしょうか。
ただ現時点では、一つのことに没頭する機会はあまりなく、いろんなことに興味を持って、首を突っ込みたがる生活から抜け切れていません。
また、家で何かに没頭するにも、同居人が家にいると、事あるごとに話しかけられたり、買い物につきあわされたりと、一日何かに没頭して過ごす生活とはかけ離れた日々がまだまだ続きそうです😊。