団塊おんじ 人生100年時代を行く!

長く生きるかではなく、どう生きるかの試行錯誤録

だんだん車の運転に自信がなくなる

 週末に食料品の買い出しのため、車を運転しますが、助手席に座る妻が心配して、いろいろと口出しをしてくるようになりました。

 

 昔に比べて、不注意が目立つようになったといいます。

 

 最初のうちは「そんなことはない」と反論したのですが、確かにブレーキを踏むタイミングが遅かったり、標識を見誤ったりなどという場面が発生するようになったのは自覚せざるを得ません。

 

 私自身もそうですが、高齢ドライバーが増えたせいか、街中を運転していても、危ない場面に遭遇することが多くなりました。

 

 若いドライバーが無茶な運転をするのとは違い、高齢ドライバーの場合は、適切なスピードで流れにあわせることができなくて、後方の車をイライラさせるとか、突然ウインカーも出さずに方向を変えて、驚かされたりといったケースが目立ちます。

                                    ツツジ

 昨年の暮れには、実家に行った時に、両親の買い物で薬局店の駐車場で車を止めようとしていたら、横からバックで動き出した車が、私の車に襲い掛かりました。

 

 幸い駐車場の中で、あまりスピードを出していませんでしたので、後部のタイヤホイールのあたりにぶつけられただけで済みました。

 

 その運転者がすぐに車から出てきて謝りましたが、その後の事故処理で警察がやってきて、事情聴取などで1時間半ほど時間を費やしたのには閉口しました。

 

 その運転者は、聴けば80歳を優に超えた年齢の方でした。

 

 保険の処理のこともあるので、自宅住所を有り合わせの紙に書いてもらったのですが、書く手が震えています。

 

 怖くて震えているのではなく、どうやら病気の関係のようです。

 

 病気をきっかけに長い間住んでいた地を離れて、空気の良い田舎に転居したのだそうです。

 

 田舎暮らしでは、車が欠かせないのは相変わらず変わっていませんが、病気を持っていての運転は本当に気を付けたいものです。

 

 高齢になったら免許を返納するというのが一番良いのでしょうが、それが難しいとすれば、遠出を控えたり、夜や雨の日は運転を控えるなど、少しでも事故を起こさない工夫をしていかねばと思っています。

 

 

夫さんが私の実家を訪ねたいといいます

 次女のパートナー(夫さん)が、私の実家を訪ねたいと前から希望していました。

 

 夫さんは自営業で普段は日曜日しか休みが取れないのですが、年に何度かまとまった休みを取っているようです。

 

 この4月は引越しや車検などもあり、まとまった休みを取れたこともあり、前から希望していた私の実家行きを実行に移したいと相談がありました。

 

 そこで、私たちもついていくことにして、実家近くのホテルに予約を入れ、 次女夫婦と赤ちゃん、そして私、妻、長女と大勢で出かけることにしました。

                                                 プリンセスチチブ

 

 実家の父には事前に連絡を入れ、次女夫婦が訪ねる前に、私たちが先に実家に行って、掃除などを済ませてから迎え入れる手はずを整えます。

 

 父は庭仕事は好きで、こまめにきれいに手入れをするのですが、家の中の掃除は苦手で、毎回私たちは行くたびに掃除機をかけることからはじめています。

 

 今回は長女もついてきて、3人で手分けして掃除を手早く済ませました。

 

 予め父には伝えておいたので、父は張り切って、庭に沢山の花を植えておいてくれました。

 

 近くのホテルで待機していた次女に連絡を入れ、準備が整ったことを伝えます。

 

 次女と夫さんは赤ちゃんを抱えて、歩いてやってきました。

 

 父と母は、赤ちゃんの顔を見ると、満面の笑みで迎えます。

 

 父母に初顔合わせの夫さんを紹介すると、彼は足の不自由な母の足をマッサージし始めます。

 

 医療用機器の販売を生業とする夫さんは、マッサージの心得もあるようなのです。

 

 父は赤ちゃんを抱えてご満悦の様子、赤ちゃんは機嫌がよく笑顔を振りまいてくれるので、長女と次女はそんな様子にスマホを向けて、写真を撮り続けています。

 

 ひ孫の笑顔で父母はすっかり癒されたようです。

 

 いつももらい湯だけで、泊まることはないホテルなのですが、今回はこの機会に、私たちも一緒に泊まることにしてあります。

 

 そろそろ夕食の時刻が近くなってくる時間に、ホテルに引き上げることにしますが、その間に妻と長女は、両親の夕食の準備をしておいてくれました。

 

 別れ際に夫さんは「またお邪魔します」と父に挨拶します。

 

 自分の親だけでなく、嫁(次女)の親家族をも大切にしたいという夫さんの姿勢は、有り難いと感じながら見守っていました。

 

 

マスク外す? 続ける?

脱マスクが宣言されて一ヶ月が過ぎました。

 

マスクをつけた生活から開放されて、以前の日常を取り戻しつつあります。

 

ただ私の場合、花粉が飛ぶ季節であったり、中国から黄砂が飛んできたりで、これまでマスクをなかなか外せませんでした。

 

 テレビを見ていたら、都内の山手線の某駅で調査をすると、マスクを外している乗降客は3割弱だとの結果だそうです。

 

 私も週2日ほど電車に乗りますが、ほとんどの人がマスクを付けているという印象です。

              Jose Antonio Albaさんによるpixabayからの画像

 

 日本で脱マスクが進まないのは、集団内で多数派に合わせて行動するよう強制する「同調圧力」の強さが指摘されています。

 

 特に今回の新型コロナは、他人にうつしたり、自分がうつされたりするため、他人の行動が余計に気になってしまうようです。

 

 逆に言えば、外す人が一定割合を超えると、脱マスクが一気に進むのでは、とみる専門家もいます。

 

 また欧米などは一気に脱マスクが進んだのに比べ、日本で慎重な人が多いのは、日本人は「目元」で、欧米人は「口元」で相手の表情を読み取る傾向が強いことも一因していると中央大学の山口真美教授(認知心理学)は指摘しています。

 

 一方で脱マスクが進む教育現場や職場からは「息苦しさがなくなり、集中力が上がった」と歓迎の声が上がっています。

 

 マスクの内側は、酸素の量が少なくなりがちです。着けていない時と比べて酸素は13%減り、二酸化炭素が30倍に増えるとの海外の研究結果もあるようです。

 

 学校現場などでは、脱マスクでの学習環境を整えた方がいいのかもしれません。

 

 また長いマスク生活中は、女性はマスクで隠れる箇所は、化粧をせずに済むので楽だったといいます。

 

 そして、いよいよ脱マスクが本格化するのを受けて、化粧品がよく売れているようです。

 

 またマスクで顔が隠れる生活に慣れて、いきなり顔全部を晒すのに不安を覚え、前髪でなるべく顔を隠すようなヘアスタイルが流行っているともいいます。

 

 一方で、少ないながらもコロナ感染者はじわりと増えつつあるとの報道もあります。

 

 高齢者は感染すると重症化の危険もありますので、マスクをなるべく付けた生活をおくる方が無難なのかもしれません。

 

 私の場合はもうしばらく、外に出るときにはTPOに合わせて着脱する生活を続けようと思います。

 

保育施設の4割が定員割れ!?

 つい最近まで「子どもを預けようにも保育施設に空きがない」とニュースで取り上げられて、問題となっていました。

 

 しかし今度は「県庁所在地や政令市など保育の需要が大きい103自治体の保育施設の少なくとも約4割が、今年4月入園の1次選考終了時点で定員割れになっていたことが分かった」との報道。

 

 一体どうなっているのか?と疑問に思ってしまいます。

 

 地方を中心に少子化の影響が鮮明になってきたとの分析です。

                                        Ranta Fitryさんによるpixabayからの画像

 

 また施設の定員について課題に感じていることを複数回答で尋ねたところ、43自治体が「保育士不足で定員まで子どもを受け入れられない施設がある」と答えています。

 

一方、申込者数から1次選考の内定者数を引いた落選者数は約5万9600人で、前年より2%増えました。落選者数が増加した自治体が57、減少した自治体が45でした。通いやすい特定の施設に利用希望が偏ることが影響したようです。

 

 政府は3月末に公表した「次元の異なる少子化対策」のたたき台で、親の就労の有無を問わずに保育所を利用できる「こども誰でも通園制度(仮称)」の創設を打ち出しました。

 

これは、既存の保育所の空き定員の活用などが念頭にあるのですが、保育士不足の解消を目指さなければ、この施策の実効性は期待できないでしょう。

 

 また、少子化の影響が出ている地方の自治体では、保育施設の「統廃合を検討している」のは24自治体に上っているようです。

 

 統廃合となれば、通い難さといった問題が新たに発生しそうです。

 

 一方、保育士さんの業務量は、私が想像するより遥かに過酷な状況のようです。

 

 保育現場での事故を防ぐためにも、余裕を持った保育サービスが必要ですから、保育士さんの処遇を本気で見直さなければ、保育士不足の問題は解消しないでしょうし、異次元の少子化対策は実現しないのでは、と思ってしまいます。

 

海外に出稼ぎにいく若者たち

 今年はやっと賃上げムードが浸透し、多くの企業でベアを含む賃上げが実現しています。

 

 一方で、日本で働くことに見切りをつけ、高い報酬を求めて海外に飛び出す若者が増えているといいます。

 

 人手不足の国では、同じ職種でも日本の賃金の倍の報酬が支払われるケースが少なくありません。

 

 日本で働いていた時は、手取り20万円そこそこだったものが、海外では50万円もの収入を手にできるといいます。

 

 日本で働いていて、平均的な生活はできていても、貯蓄にまで手が回らず、将来に不安を感じて、毎月10万~20万円あるいはそれ以上が貯蓄に回せる海外での仕事に魅力を感じる若者もいます。

 

 このような報酬格差があれば、何も日本にしがみついている必要はないのでしょう。

                                           Dim Houさんによるpixabayからの画像

 寄らば大樹で、安定している大企業に勤めていれば、一生安泰などという時代ではなくなったのかもしれません。

 

 自分のやりたいことができないという理由で、安定した職を辞め、海外に飛び出すケースもあります。

 

 リーマンショック以降、日本企業はひたすら守りの姿勢に入り、儲かったとしても次への投資や賃金にまわすことをせずに、ひたすら内部留保を増やすことばかりをしてきたツケが、いま日本を襲っているような気がします。

 

 また少子化はとどまることをしらず、やっと重い腰を上げた政府の“異次元の少子化対策”は功を奏するのでしょうか。

 

先日、社会を変革しようと立ち上がっている若者たちの座談会を聞いていましたら、あるパネリストが「高齢者人口に比べて、数の少ない私たち若者は、少数派とみなされることが多い」と話していました。

 

 選挙のことを考えれば、政治家たちがボリュームゾーンの高齢者世代に目を向けるのも仕方がないのでしょうか。

 

子どもを含め、若い人たちが希望を持てない国になってしまえば、日本には未来はないのだと肝に銘じつつ、日本の大人たちは、若い世代に目を向ける必要があります。

 

 

関西弁は直す必要あるの?

 昔お世話になった職場の上司に大阪出身の方がいました。

 

 彼は大学進学で上京して以来、30年近くになるのに、コテコテの大阪弁で通していました。

 

 仲の良い他職場の同僚からは、ときどき冷やかされたりしていたのですが、一向に意に介しませんでした。

 

 その上司とは、数年間一緒に仕事をしましたが、私にとっては関西弁での会話はまったく気になりませんでした。

 

 先日、関西から関東に引っ越して1年半になる女性の、以下のような投稿が目に留まりました。

                               Jill Wellingtonさんによるpixabayからの画像

 

 引っ越してから、これまでに2度、「そんなに関西弁が抜けないですか?」と言われました。1度目は美容師さんに言われ、2度目は初めて話した関西出身の会社の同僚からです。

 

 2度も同じことを言われると、これは暗に標準語に直せと言われているのかと思ってきました。

 

 関東の方からすると、関西弁が耳に入ることは不快なのでしょうか?

 

 関西弁を直して標準語にすべきだと思われますか?

 

 以上の内容でした。

 

 私の以前の上司も、お客様とのやりとりなどは、さすがに標準語で話そうとしていましたが、イントネーションやポロっと飛び出す大阪弁が入り混じっていました。

 

 しかしコミュニケーション上の問題はありませんでしたし、大阪弁が見え隠れする標準語が緩衝剤になって、お客様との距離を近づけることがよくあったような気がします。

 

 この件は、関東圏在住のビジネスマンからは様々な意見や考えがあるようです。

 

 しかし、最近では吉本興業の“お笑い芸人”たちがテレビのバライティ番組を席捲している時代、関東の人達にも関西弁が身近なものになっています。

 

 TPOに合わせて、方言と“標準語もどき”を使い分けながら、まわりに溶け込んでいけばいいのではないでしょうか。

 

 関西弁に限らず、方言は生まれ育った故郷の大切な文化です。

 

 方言が職場などで、お互いの文化を尊重しあう人間関係を築くきっかけになればいいと、私は思います。

 

 

社会に潜む適応の落とし穴

 環境に適応できた者が生存競争を勝ち抜くという考え方を、私たちはわりと素朴に受け入れています。なるべく早く、よく慣れた方が有利に決まっていると。

 

 しかし、その環境が、認識しづらいほど緩慢に変化しているとしたらどうなのでしょうか。

 

 独創的な手法で過去2600年分の日本の気候を解き明かし、日本史の読み直しを試みる研究者がいます。

 

 名古屋大学教授の中塚武さんです。

 

 中塚さんの専門は同位体地球化学、性質はほぼ同じで、質量が異なる同位元素の比率や特性を利用し、地球に迫るもので、はじめは海の研究が主でした。

 

しかし「調べるなら年輪だ」。そんな嗅覚が働き、木の研究をスタートさせます。

 

 中塚さんは考古学者らに声をかけて、中部地方の木材を集め、5年ほど前、古代(紀元前600年)から現代(2000年)の気候変動を1年刻みで解明してしまいました。

                                     Bessiさんによるpixabayからの画像

 人はときに適応し過ぎる習性があるようです。

 

 人は通常、環境変化を想定し、事前に対処することができる能力を持っています。

 

 市場経済の導入は、そのひとつとみてよいと中塚さんはいいます。

 

 江戸時代でも18世紀、享保の時代・将軍吉宗の頃に、米の先物取引が始まりました。

 

 ところが、これをきっかけに「それ以前は起きなかったような、気候変動の被害を増幅させるようなメカニズムが発動する」と中塚さんは指摘します。

 

 相場で儲ける人々が登場し、飢饉がチャンスと化します。備蓄米を売って大儲けした後、飢饉に直面した集落もあったといいます。

 

「同じ江戸時代でも、前期は状況が悪化したからといって一揆には結びつきませんでした。窮地に陥った藩を救済する力があったのです。ところが、吉宗の時代、財力を失った幕府が市場経済を導入してから事態は一変するのです」と中塚さん。

 

 過去の適応の失敗を繰り返さぬよう、新しい仕組みを設けて対処する知恵を人間は持ち合わせています。しかしそうした自前のシステムにも過剰に適応してしまうのです。

 

 おそらく人間は、根っから環境に依存してしまう生き物なのでしょうか。

 

 そういう視点から、都市への集中と地方の人口減少の問題を考えてみると、何十年も前から、日本人はこの問題を認識し、議論も繰り返されてきました。

 

 ところが、深刻な変化だと重々わかっていても、地方の暮らしは、なんとかなってきたのです。車と道です。

 

 車さえあれば、日々の買い物はできてしまいます。

 

 近隣の街で暮らす子供たちは日帰りでやってこれます。

 

 道は舗装され、場所によってはトンネルも開通したので、かつてのように何時間もかからずにやってこれます。

 

 といったわけで、人口が減り続けても、なんとかなってきました。またほとんどの住民は、これからも何とかなるだろうと思っています。

 

 そうして気付くと、日本は「限界集落」や「消滅自治体」だらけになっていたのです。

 

 テクノロジー、システム、インフラ整備によって社会はたしかに豊かになります。

 

 環境がある程度厳しくなっても、適応できる力がついているかのように錯覚しているのです。

 

 しかし、その力は、免疫力のような根本的な力ではないのです。

 

 あらゆる技術を駆使して「かさ上げ」された社会。いわば、大量の薬で何とかなっているだけの社会なのかも知れません。

 

 人間には認識しづらい緩慢な環境変化があるとして、では、これをいち早く、そして正確につかむすべはないのか。

 

 あるかもしれない。未知の変数を含む複雑な方程式の演算と、厄介な統計の読解を同時にこなす機械です。

 

 現にこの社会は、そういう機械に物事の判断を委ね始めているといいます。

 

 自分で考えることなく、見ることさえしなくなった、知りたいことだけを知る、薬で眠らされているような暮らしをしているのかも知れません。

 

 適応の落とし穴の、その先を考えることを私たちは出来るのでしょうか。

 

何とかなっている今のうちに、人類の未来、地球の未来を。

 

 私たちはまだ、人間のことを思ったほど知らないのかもしれません。