団塊おんじ 人生100年時代を行く!

長く生きるかではなく、どう生きるかの試行錯誤録

「極上の孤独」を読んでみた

  下重暁子さんの「極上の孤独」を読んでみました。


  孤独礼讃というよりも「一人でいる時間の効用」を記している著書だなという印象です。

 

 孤独死という言葉に代表されるように、孤独という言葉には、暗い打ち出イメージが付きまといます。

 

  しかし最近、この本の著者や五木寛之氏らが孤独を肯定的にとらえるメッセージを、著書を通じて投げかけています。

 

孤独になることを嫌うのではなく、孤独になり自分と対話する時間を通じて、孤独を楽しみ、味わうことができるといいます。

 

 本屋でこの本を手に取って、パラパラ斜め読みをしてみると、私の好きな哲学者・三木清の言葉が引用されていましたので、興味をそそられ買って読んでみることにしたのです。

 

その箇所を紹介してみます。 

「孤独は山にはなく、街にある」
哲学者、三木清の『人生論ノート』の言葉だ。
孤独を求めて山に入るとは修行することである。仏教でも、キリスト教でも、イスラム教でも、悟りの境地を得るために深山に分け入り、岩をうがって、そこで修行した。・・・ひたすら仏を求め、神を求め、無我の境地に入り込んでいたに違いない。心は満たされ、狼の遠吠えも気にならない。

 

 むしろ町にいる時、大勢の人が自分をとりまき、通り過ぎていく、その中で誰一人とも心を通わさず、言葉を交わさず、ああ自分は一人だという隔離された気持ちと疎外感にさいなまれて、・・・他人とのコミュニケーションの手段が増えれば増えるほど、寂しさは増すのだ。 (文中より)

 

 この箇所を読んだときに、昔読んだ夏目漱石の著書の中で「街中で数多の異性が触れ合うなかでの恋愛よりも、山峡のほかに誰もいない地で育まれる恋愛の方が、濃密で確かなものになる」といった意味の文章があったのを思い出しました。

 

  文中で言わんとすることと意味は違いますが、己の気持ちに深く問いかけて、愛を純化していくプロセスには、孤独と向き合うことと共通するものがあると思いました。

 

 著者の下重さんは小学生2~3年生の時、結核で二年間近くを家で療養生活をしたようです。安静にする日々のなかで、自分の小宇宙をくまなく見渡し、興味のあるものを見つけ出す日々を送ったといいますから、一人でいて孤独な時間を過ごす中で、孤独の楽しみ方の原体験をしていたのでしょう。

 

 自分の孤独な時間の過ごし方や、何人もの著名人の孤独への向き合い方が紹介されていますが、人生の中のその時その時を「生きることにどう向き合っていくか」と自分に問いかけるのは、孤独にならないとできないことかと勝手に納得した次第です😊。