団塊おんじ 人生100年時代を行く!

長く生きるかではなく、どう生きるかの試行錯誤録

男尊女卑という言葉

【健康被害が発生しているハイヒールの強制】

「ビジネスパンプス強制問題」が論議を呼んでいます。

 

 海外では「性差別であり健康被害を生む」として企業を規制する国もあるようですが、日本には服装など労働条件の性差別を直接規制する法規定がありません。

 

 女性にハイヒールを強制する職場があることに関し、根本匠厚生労働相は「社会通念に照らして業務上必要かつ相当な範囲」と述べ事実上容認する考えを示しました。

 

 そうはいうものの、実際にかなりの女性が「健康被害」を被っているのだとすれば、少なくても強制はやめてほしいと私は思っています。

 

 

【男尊女卑の歴史】

「男尊女卑」という最近あまり聞くことのない言葉を思い出しました。

 

 日本で男尊女卑の考え方が生まれ始めたのは、歴史を遡り、江戸時代頃であると言われています。

 

 江戸時代は、幕府が日本を統治していて、武士に大きな権力がありました。日本では武士という身分は家柄などによって決まる身分制度の一つでした。

 

 ですが、女性が武家の家系に生まれても女性は武士になることは叶わず、生まれた時点で男性よりも地位が劣っており、これが日本での男尊女卑の歴史の始まりの理由であったと言われています。

 

 世界的な始まりの歴史をみていくと、厳しい自然環境の中で生き抜こうとした人類は、農業や遊牧をするにしても肉体的な強さが必要なのですが、力や体力の劣る女性は、男性の保護下におかれたのです。

 

 それが男尊女卑の考え方に繋がった理由だと言われています。

 

 日本でも世界でも男尊女卑の始まりの歴史は似たようなものですね。

 

 昔は今ほど女性が男性と同じように活躍できる場は少なく、どうしても力や体格などが重要視されてしまったのです。

 

【女性差別撤廃の流れ】

 1986年に施行された「男女雇用機会均等法」ですが、その元になったのは1972年制定の「勤労婦人福祉法」でした。

 

 「勤労婦人福祉法」は、女性の残業や深夜勤務、危険業務を制限し、育児・介護休暇を認めるなど、女性を弱者として保護するためのものでした。

 

 しかしその後、1979年に国連総会で女子差別撤廃条約が採択されたことから、全面的に改正され、雇均法に至ります。

 

 今や特殊な職種を除けば、ほとんどのフィールドで女性が活躍している時代です。

 

 若い世代では「夫婦共稼ぎ」は当たり前ですから、家事も助け合ってこなしているようです。

 

 職場ではおじさん方が、セクシュアルハラスメントの疑いをかけられるのを恐れ、以前とは比べようもないほど女性社員に気遣いをしている時代です。

 

 根本厚労大臣のいう「社会通念」の中味を、さらに詳しく訊いてみたいものですね😊。

 

 

 

独居高齢男性の深刻な会話不足

【会話する頻度が2週間に1回以下!】

私が住むマンションでも、奥様に先立たれて一人で住んでいる高齢男性が何人もいます。

 

 皆さん気ままに暮らしておられるように見えるのですが、立ち入ったことまで訊くわけにはいきませんので、実情はよく分かりません。

 

  国立社会保障・人口問題研究所の2017年 「生活と支え合いに関する調査」では、65歳以上の独居男性の15%は、会話する頻度が2週間に1回以下という驚くべき結果が出ました。頼れる人がいないと答えたのは、3割ということです。

 

 同年代の独居女性はそれぞれ約5%、約9%ですから、独居男性の深刻度は女性の3倍です。結婚していても、独身でも、高齢男性のコミュニケーション不足が非常に深刻であることが、この調査からわかります。

 

 もちろん夫に先立たれた夫人が、独り住まいをしているという数の方が、圧倒的に多いのでしょうが、女性はコミュニケーション能力に長け、友達同士で会って、おしゃべりに花を咲かせることで、精神的安定を保っている方が多いのではないでしょうか。

 

  男性にも社交的で外出好きな人はいるのでしょうが、出不精で趣味もあまりないような男性が、1日誰とも話すことなく、家で過ごしているというデータ結果は、健康面でも悪影響を及ぼすのではないか、と心配になります。

 

 また3割の人が、頼れる人がいないという調査結果も気になります。

 

  独居高齢男性のこのような数字を見ると、どうしても暗いイメージの孤独という言葉が頭に浮かんでしまいます。

 

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【前向きに孤独と向き合う】

  五木寛之さんの「孤独のすすめ」(中公新書ラクレ)、そして下重暁子さんの「極上の孤独」(幻冬舎)を読んでみました。

 

 「孤独のすすめ」からは、孤独に向き合うにあたっての示唆を、「極上の孤独」からは、群れて生きることからは得られない孤独の楽しみ方を教えられた気がします。

 

 暗いイメージを与える「孤独」を恐れたり、まわりの目を気にしたりせずに、自分の孤独への向き合い方を、じっくり考えてみる必要があるのかと思っているところです。

 

 そんな中、「孤独のすすめ」へのキックさんという方の、こんなレビューをみつけました。

 

 『自分が独りぼっちになった時、どうするか。五木先生のエッセイは、孤独に向き合うにあたっての示唆を与えてくれます。


 実は私には、「生き方の模範」としている人物がもう一人います。亡き父です。

  母が亡くなった後の10年間は、一人暮らしでした。最初は辛そうでしたが、いつの頃からか孤独との間合いがわかったようです。

  また癌を患った後も、死に対する恐怖を微塵も感じさせず、私の知らない多くの知人から惜しまれて亡くなりました。

  存命中に、「生きるコツ」を教えてもらえば良かったと、今になって後悔しています。』

 

 私も娘たちにこんな風に思われて死にたいものだ、と思っています。

 

 最も私の場合は、妻が先に行く確率はほぼゼロに近いので無理かなとは思いますが…😢。

 

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ハナショウブはアヤメのことでした

【ハナショウブはアヤメ科】

 6月限定で開園する花ショウブ園に行ってきました。

 前から気になっていたのですが、なかなか都合がつかず、のびのびになっていたのです。

 

  お天気も良く、絶好のお出かけ日和です。6月の花ですが、前日の雨でやや元気がない姿だったのが、日があたり徐々に張りを取り戻しつつあります。

 

  この歳になるまで知らなかったのですが、ハナシヨウブの別称がアヤメなのだそうです。

 

 5月の端午の節句の際に、菖蒲湯に入る習慣がありますが、あのショウブはショウブ科に属し、ハナショウブはアヤメ科に属しますから全くの別物だそうです、何だかややこしいですね😊。

 

私は小さい時からアヤメが好きでした。

 

 毎年実家の庭の隅にポツンと1本、アヤメが咲いていて、その深い紫青の色に惹かれていたのです。

 

 訪れてみると、白、ピンク、黄色など紫青色以外に様々な色の種類があることに驚かされました。

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染谷花ショウブ園のアヤメ

 

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【ハナショウブ栽培も江戸の文化が花開かせた】

  江戸時代からハナシヨウブがさかんに栽培されるようになり、交配が行われた結果、いまや数百種類もあるそうです。

 

 この園だけでも約200種類2万株が植えられています。

 

 270年近く戦乱の無い平和な世だった江戸時代は、さまざまな文化が花開きましたが、江戸中期頃に初のハナショウブ園が葛飾堀切に開かれ、浮世絵にも描かれた名所となりました。

 

  旗本松平定朝(菖翁)は、60年間にわたり300近い品種を作出し名著「花菖培養録」を残し、ハナショウブ栽培の歴史は菖翁以前と以後で区切られています。

 

 こうして江戸で完成された品種群が日本の栽培品種の基礎となりました。

 

 園を一回りしている間に、気温がぐんぐん上がってきました。しかしあちこちに木陰があり、そこに入り込むと湿度が低いこともあり、何とも心地よい薫風が暑さを忘れさせてくれます。

 

 やはり自然の心地よい風は、クーラーに優りますね😊。

 

 

消滅集落に暮らす人々の“寂しさ”に寄り添う

【限界集落の終活を唱える大学生】

消滅しそうな集落の「終活」に動き出した大学生の記事に目が留まりました。

 

 地方の活性化策ばかりに議論が向いてしまいがちですが、こんな暖かい眼差しを向けている若者がいるんだと感心させられました。

 

以下は、朝日新聞の記事『限界集落の「終活」を唱える大学生』の抜き書きです。

 

消滅寸前の集落のことを「再生」の一点張りではなく、「終活」の視点でも語り合おう。

そんなネット上の語り場コミュニティー「ムラツムギ」を今春、全国の有志4人と共に立ち上げた。

 

東京都出身。高校進学時、大好きな釣りを楽しみたくて、島おこしのため県外から生徒を受け入れる島根県の離島・海士(あま)町の隠岐島前(おきどうぜん)高校へ。

 

週末、釣りざお片手に島内を巡り、農作業などを手伝ううちに、島民の本音に接した。

先祖から受け継いだ農地を引き継ぎたくても、島に子孫がいない。
都会で暮らす子供に「帰れ」と言えない――。

 

ある漁師からは「島に帰って来たらオレの船をやる」と言われた。
「先祖が守り続けたものを終わらせてしまう罪悪感。
それが島民の人生をつらくしている、と感じたんです」

 

集落が無人になる前に、しきたりや四季折々の祭りなどを引き継ぐ形を見いだせたら、住民も地域も心穏やかな最期を迎えられるのでは。
そう仮説をたてた。

 

「まちの終活専門家になりたい」と今春、慶応大学総合政策学部に進学。


入学式前日、SNSなどで知り合った若者たちと都内で「ムラツムギ」結成イベントを開き、約40人と意見を交わした。

 

賛同者は徐々に増え、ネットで議論が続く。


当面は「『終わり』をタブー視せず、語り合える土壌づくり」
に努めるという。
                 (以上 朝日新聞2019.6.11 より)

 

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【タブー視しない勇気】

この大学生は前田陽太さんという方です。

 

 限界集落の関係者であれば、誰もが心の中で思い、だが普段あまり口に出すことを避けている集落の生末(いくすえ)。

 

「ムラツムギ」は、村を紡(つむ)いでいくという意味があるそうです。

 

 この活動が全国に広がっていくことを願うばかりです。

 

 日本もまだまだ捨てたもんじゃないね! 😊。

 

 

 

8050問題、もう一方の課題

【少しほっとする話題】

『23年ひきこもり…52歳男性はなぜ家を出られた? 「8050問題を考える」というAERA(2019.6.17号)の抜粋記事を読みました。

 

 家を出られるきっかけとなったのは、母親が頼る支援者の存在でした。

 

 長年ひきこもりの支援に関わるNPO「遊悠楽舎」の明石紀久男さんは、3年間家庭を訪問し続けました。

 

 母のすすめで不承不承会ってみることになり、相談を重ねていくなかで、『僕は親の家でなんか、生きていたくない』と思うようになったと言います。

 

 明石さんは、本人から「本音=欲求」が湧き出てくれば事態は動き出すと言います。

 

 特に50代にもなると「今更、何をしても無理」という諦めが強いと感じている。だから、こう声をかけます。

「確かに若くはない。でもここからだよね。自分が生きたかった人生を生きてみようよ」

 

 このところ、ひきこもりに関連した凄惨な事件が相次いでいただけに、少し救われる思いがするニュースではあります。

 

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【支援現場の実態】

明石さんのような「ひきこもり支援のプロ」といわれる方は、全国に何人もいます。

 

 しかし61万人いるといわれる、40代~50代の引きこもりの方々を支援することを考えれば、圧倒的に人手不足・人材不足と言わざるを得ません。

 

 厚生労働省もここ数年ひきこもり支援に力を入れ始め、現在全国に75か所の「ひきこもり地域支援センター」を設置するまでになりました。

 

 しかし専門家に聞くと、まだまだうまく機能し、実効性ある活動になっているとは言い難いといいます。

 

 ひきこもりではない若者の自立支援もそうですが、本人に就労を迫る支援が中心になってしまっているのです。

 

 税金を投入しているのだから当然だという意見もありますが、AERAの記事の例をみてもわかるように、「時間をかけた忍耐強い支援」が必要な場合が多いのです。

 

【支援スタッフへの支援が大事】

   一方の重要な課題は、ひきこもり支援のプロ達が、長年蓄積してきたノウハウを受け継ぐ後継者スタッフが育っていないということです。

 

 ひきこもり支援を行っているNPO組織などの実態をみると、トップを含めたパートナー幹部を除いた、それ以外の支援スタッフは、3年以内に辞めてしまうという実態があるのです。

 

 介護や保育の分野と同様、低賃金で負担の多い支援活動を行っており、最初は志を持って活動を行っていても、経済的理由で転職せざるをえないという事例が後をたたないのです。

 

 現場の支援スタッフの間では、結婚を機に辞めていく仲間のことを「寿退社(ことぶきたいしゃ)」と呼んでいるそうです😢。

 

 課題の多いひきこもり支援ですが、見過ごしてはならないのは育成策を含めた「現場の支援スタッフの支援」ではないかと思っています。

 

 

 

日本人の寿命

【鎌倉時代が一番短命だった】

 いまや世界有数の長寿国となった日本ですが、これまでの日本人の寿命を振り返ってみるとどうなのでしょうか?

 先日の報道(2019.6.5読売新聞)で、中世の日本人は、他の時代に比べて短命だった可能性が高いことが、聖マリアンナ医科大学の長岡朋人准教授(形質人類学)らのグループの研究でわかったと報じられました。

 

 短命のピークは、中世前期の鎌倉時代にあたる12~14世紀頃とみられ、弥生時代や戦国時代に比べても短命なことがわかりました。

 

 長岡准教授は、「13世紀には大きな地震も起きており、戦乱や自然災害の影響で短命化が進む危機的な状況があったのではないか」と結論付けています。

 

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【大豆製品が日本人の健康に寄与した】

 戦乱・戦争や大きな自然災害があれば、当然平均寿命は下がるでしょうが、食生活の面で、日本人の健康や寿命に大きく貢献したのは、豆腐や納豆などの大豆製品ではないかと思っています。

 

 明確な記録はないのですが、豆腐は奈良時代(710~784)に、中国に渡った遣唐使の僧侶らによって伝えられたとされています。

 

 江戸時代に入ると庶民の口にも入るようになり、日本の気候、風土、水、あるいは日本人の繊細な気質等に育まれ、日本の豆腐として発展していきます。

 

 今日では世界的な和食ブームが起こるくらいに、日本の食生活は注目されるようになりましたが、豆腐が日本に伝えられたことが、日本人の健康と長寿に大きく寄与したことは間違いないようです。

【短命説・長命節】

 そういえば1990年に日本人の食生態学者の西丸震哉(にしまる しんや)氏が
『41歳寿命説』を世に送りマスコミで大きな話題となったことを思い出します。

 

 彼は、明治、大正、昭和の20年代の日本人に比べて、昭和34年以降に産まれた若者たちは、環境汚染に晒されて育ち、食べ物も伝統的な日本食を離れ、ジャンクフードばかり食べているので、41歳までしか生きられないと自説を世に発表し、世間を騒がせたのです。

 

 しかし日本人の平均寿命は、その後毎年更新され続けており、この事実と自説の整合については亡くなるまで公にコメントしませんでした。

 

 近年では、それどころか先進国では2007年生まれの2人に1人が100歳を超えて生きるだろうとまで言われています。

 

 ただ今の日本は格差が進行した「格差社会」で、それが「健康格差」に繋がるという人達もいます。

 

 「金の切れ目が命の切れ目」などという社会にはなって欲しくないですね😢。

 

 

地方銀行はどうなってしまうんだろう

【地銀をめぐる暗い話題】

 私には全国各地の地方銀行に何人もの友人がいます。

 

 若い頃に三か月間寝食をともにして学んだ方々です。

 

 勤務地が変わると挨拶状を貰ったりしていました。

 

 いまでは年賀状のやりとりだけの付き合いになってしまいましたが、私より若い方々は、なお現役で活躍しています。

 

 それだけに最近の地方銀行をめぐる暗い話題には、彼らの顔を思い浮かべながら、思わず心配になってしまいます。

 

 大半の地方銀行の業績は、相変わらず低迷が続いています。各地方にはなくてはならない存在とはいえ、その役割を十分果たせていない結果となっているのです。

 

 地方銀行の合併への規制が緩和され、生き残りをかけて合併に乗り出す動きも加速するようです。

 

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【バブルの後遺症】

 かつてのバブル景気時代には、多くの地方銀行が無茶と思えるような過剰融資を行い、結果巨額の回収不能な負債を抱えてしまいました。

 

 長い年月をかけ、それらの整理が行われてきましたが、いまだにその傷が癒えたわけではありません。

 

 そんな中、日銀のマイナス金利政策が行われ、市中に多くの資金が送り込まれることを期待したのですが、融資に慎重な姿勢を崩さない地方銀行は、なかなか融資額を積み上げられずにいます。

 

 先日、地方でベンチャー企業を立ち上げようとしている人の話を聞いたことがあるのですが、地方銀行は今でも「担保主義」の姿勢をくずしていないといいます。

 

 このような状況では地方に「新しい事業の芽」が育つのは難しいのではないかと思っています。

【東京一極集中に負けるな】

 人口減の続く地方が活力を取り戻すためにも、意欲ある起業家の支援や、場所を選ばないIT企業の誘致など「あの手この手」を使って、地方銀行が自治体と連携して突破口を切り開いて欲しいものです。

 

 地銀の友人達よ、頑張れ!