団塊おんじ 人生100年時代を行く!

長く生きるかではなく、どう生きるかの試行錯誤録

日本は本当に住みやすい国ですか?

    最近テレビや雑誌などで「日本はすごい」とか「日本に憧れる外国人が多い」とかといった情報を頻繁に目にします。

 

 確かに素晴らしい面もいろいろあり、日本人として誇らしく思うこともあります。

 

 しかし他国の人が日本に住んでみたいと思うかというと、そう多くはないのではないかと、最近感じています。

 

 集中豪雨や次々にやってくる台風の被害、そして地震による建物やインフラの損壊など、自然災害は後を絶ちません。

 

 また今年の「命に係わる暑さ」の猛暑の夏に見られるように、高温多湿の気候は赤道直下のアフリカに住む人に「我が国の方がまだ過ごしやすい」と言わしめるほどなのです。

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   また「経済大国日本」などと言われますが、日本の労働生産性は2016年度も主要7ヶ国(G7)の中で最下位です。OECD加盟35ヶ国中20位で、前年度(2015年度)から1.2%上昇したものの、順位は変わっていません。

 

 今「働き方改革」と叫ばれていますが、遅くまで働いても結果が出ない(生産性が上がらない)状態は簡単に改善できるとも思えません。

 

 また少子高齢化にも拍車がかかってきますので、人手不足の状況は今後慢性化し、働く人たちには老人を支える社会保障コストが益々重くのしかかってきます。

 

  日本人が遅くまで働いているのを見て、海外の人は「信じられない!」と言います。

 

 日本のビジネスマンが「エコノミックアニマル」などと言われた頃、こんな挿話を聞きました。

 

 日本の靴を売る営業マンが、とある南の国に商売に行きました。


着いてみると、現地の人たちは裸足で歩いています。
これは大きなビジネスチャンスだとばかりに、現地の人たちにアプローチする計画をたてながら、現地の協力者を探します。

 

 暑い国なので、ハンモックに寝そべって寛いでいる人がいます。営業マンはその人に近づき、「私と一緒に靴を売って、ひと儲けしないか?」と誘います。

 

 その人は「儲けて、どうするのか?」と聞いてきます。営業マンは「儲けたら今よりいい暮らしができるよ」と答えます。

 

 さらにその人は、「いい暮らしって、どんな暮らしだ?」と聞き返してきます。営業マンは「働かなくても、寝て暮らせるよ」と答えます。

 

 その人は「それならすでにもうやっているよ」と答えたということです。

 

 いまの日本の状態を冷静に見る若者達は、新たな価値観を持って社会と向き合っていく傾向が今後益々強まっていくのではないでしょうか😊。

 

父のマッサージチェアが故障した

  先日実家に行ってきました。父親は相変わらず庭仕事に精を出していました。


今年の夏は、山の中でもさすがに相当暑かったようで、ピーク時には庭仕事を控えていたようです。

 

 庭の隅の方が掘り起こされて、土が盛り上がっているのに気づいたので、どうしたのかと尋ねたところ、水道管が破裂してセメントで固めている箇所に水が入り込み、大騒ぎをしたとの事です。

 

 水道管が何故か車庫の下を通っていて、長い間に車の重みなどの負担もあって劣化が進み、配管に亀裂が生じたようです。

 

 なぜ水道管が車庫の下を通っているのかと、疑問に思ったのですが、昔最初に家を建てた時のことを思い出しました。

 

 ここの土地に最初に家を建てたのは、私が小学生の頃でした。その時は現在の家とは違い、今の車庫がある場所のすぐそばまで家屋があり、昔の家の台所まで水道管を通すには、確かに現在の車庫の下を通すのが当然の流れだったのです。

 

 全面的に水道管を取り換えるのは大掛かりな工事となるので、応急処置で済ませたとのことです。

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   夜になってくつろいでいる時に、父親が愛用しているマッサージチェアに座り電源を入れたところ、最初は順調に動き出したのですが、途中で止まってしまいます。

 

 翌朝父に聞くと、少し前から調子が悪くなったとのこと、水道管の件といいマッサージチェアの件といい、悪いことが重なり「あっちもこっちもガタがきてしまったよ」と悲しそうに言います。

 

 水道管の件はしかたがないとしても、マッサージチェアの故障は、毎日動き回り、風呂上りに毎日マッサージチェアに座り、疲れをとるのを楽しみにしていただけに、故障してしまったのがショックで落ち込んでいたようです。

 

 山の中でネット検索もままなりませんでしたので、メーカー名・機種名をメモり帰ってから修理依頼の連絡を取りました。

   修理センターから各地域の支所に連絡を取るシステムのようです。地方では1県に1か所しかないようで、約50㎞ほど離れた県庁所在地から出向いてくるようです。

 修理代とは別に、出張料が5000円かかると言われましたが、とにかく依頼することにしました。

 

 何日か経った日の朝早く、父から明るい声で電話がありました。「直ったよ!ありがとう!」と第一声、状況から想定して必要と思われる部品を持ってきてくれたので、その場ですぐに直してくれたようです。

 

 父はとても喜んでいました。毎日庭仕事を終えて、湯に浸かった後にマッサージチェアに座ってくつろぐのを何よりの楽しみにしていましたから、直って本当に良かったとしみじみ思いました😊。

 

 

ガスコンロは進化している

   煙の出ないスモークレスというガスコンロが売られているようです。我が家のガスコンロも古くなったので、家内は買い替えを考えているようです。

   某メーカーの最新機器を使っての、調理教室が開催されるというので、一緒に付き合わされることになりました。

 

   会場に着くと既に5〜6組の方が席に着いています。調理をするのかとばかり思っていましたが、どうやらそうではないようです。最新のガスコンロを使っていくつかの料理を調理師の先生が作ってくれるようです。

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   これまでのガスコンロは、魚などを焼く網のついた部分がありましたが、そこを使って肉ジャガを作ろうとしています。

見ると網の代わりにパンがセットできるようになっています。


   パンに肉ジャガの具材を入れ、出汁スープをかけて、アルミホイールをクシャクシャにしてから再び伸ばして、具材の上に乗せてコンロにセットします。

 

 そして煮物ボタンを押すと調理時間を計算してくれます。
最後にガス点火ボタンを押せば、出来上がるまで待つだけです。

 

 鶏の唐揚げもノンオイルで作ることができます。鶏肉に衣を付けて、同様にパンにセットして唐揚げボタンを押せば、20分ほどで出来上がります。

 

 また調理するものによって、火加減を調整して無駄な炎をカットすることによって、年間3~4千円のガス代が節約できるともいいます。

 

 この日一番勉強になったのは、調理している時250度を超えないようにすることで、油が焦げるのを防いでいることでした。

 

 油は260度を超えると、焦げて油煙が発生するそうです。
250度を保つことで、スモークレスとまではいかないものの、かなり煙や臭いが発生するのを抑えられるというわけです。
これはとても参考になりました。

 

 メーカーの営業マンや技術者、設置する業者の方が、寄ってたかって懇切丁寧に説明してくれましたので、かなり理解は進みました。

 

 消費税が上がる前に、検討しておこうと足を運んだだけですので、最後に値段を聞くと、いっぺんに現実に引き戻されました。

 消費税が上がる前というよりも、いま使っているものが本当にダメになるまでは使い続けようということになりました😊。

 

即席ラーメンの思い出

   即席ラーメンが出来て、今年で60年になるそうです。

若い頃最もお世話になった食品は、この即席ラーメンです。貧乏学生の頃はもちろんのこと、勤め始めてからも安月給でしたから、給料日までの一週間は毎日即席ラーメンで食い繫いでいたものです😊。

 

   1958年に日清食品の創業者安藤百福(ももふく)氏がチキンラーメンを世に出したのが、即席ラーメンの始まりです。私は当時、小学生に成り立てでしたが、この安藤氏の開発したチキンラーメンをいち早く食べたという記憶はありません。

 

  始めて即席ラーメンを口にしたのは、おそらく日清食品のチキンラーメンではなく、類似品だったと思います。ビスケットの缶に残った粉と油粕の混ざったような匂いがしたのは、記憶に残っています。第一印象は「あまり美味しいものではないな」というものでした。

 

  私はラーメンが大好物でしたから、それと比べてしまい、期待に胸を膨らませてしまったのだと思います。

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   しかしその後、私も食べ盛りの時期に入り、即席ラーメンも様々なものが出回るようになりましたから、本来のラーメンとは別の「家庭で簡単に作れるインスタント麺」として私の中で受け入れられていきます。

 

  最初はチキンラーメン系が主流だったのが、サッポロ一番、出前一丁、明星チャルメラなどが次々と発売され、お昼や夜食の定番として位置付けられて行きました。

 

 余裕のある時はお店のラーメンに似せて、ナルト・海苔・ねぎ・ほうれん草・ゆで卵などをトッピングして、ちょっぴりリッチな気分を味わったものです。

 

 一番好きな食べ方は、ニララーメンです。中華料理屋さんでもニララーメンとかニラソバというメニューがありますが、ニラを5㎝くらいに切って、サッと茹でて卵を加え、サッポロ一番などのインスタントラーメンなどと合わせて煮て食べます。栄養面でも上々の食べ方だと思っています。

 

 袋麺以外では、カップヌードルにも大変お世話になりましたが、どこにいても食べられるのは、最高の強みですよね!

 

 おじさんになってからは、袋麺・カップヌードルともに食べる機会が少なくなってしまいましたが、その間に即席ラーメンはどんどん進化しているようです。

 

 袋麺に液体スープを持ち込んだ「マルちゃん正麺」や日清ラ王などは、驚くほどのおいしさに、最初に食べた時は感激したものです。

 ある時実家に行くと、台所に大量のラ王が置いてありました。父親もそのおいしさにハマっているようで、昼食によく食べているようです。

 

 明日は8月25日ですが、「即席ラーメン記念日」なのだそうです。1958年8月25日に日清食品からチキンラーメンが発売されたことを記念して、そのようになったそうです。

 

 私のこれまでの人生では、即席ラーメンは本当にお世話になった食べ物ですので、即席ラーメン記念日は覚えておくことにします😊。

高校球児の成長と進化

   高校球児の晴れ舞台、夏の甲子園が今年も大詰めを迎えようとしています。暑い中、連日満員のようです。

 

  球児たちは勝ち進むごとに、それまでの実績以上の目覚ましい活躍を見せることがよくあります。地方大会の時とはひと味違う、甲子園球場独特の、熱い声援に背中を押され、信じられないようなパフォーマンスを発揮し、新しいドラマを作り出してくれるのです。

 

 現在ベスト4まで勝ち進んでいる済美高校ですが、星陵高校との一戦で大量リードされる中、後半に信じられないような追い上げを見せ、ついには1番の矢野功一郎選手が、自分でも信じられない逆転満塁サヨナラホームランを放った一戦などは思い出に残る試合でした。

 

 見た目,線の細い矢野君から、まさかこんな一打が出るとは誰も予想していなかっただけに、なおさら感動的だったのだと思います。

 

 勝ったチームの監督さんが勝利インタビューの中で、「うちのチームは一戦一戦勝つごとに、成長し進化しています。」といったコメントを述べられます。

 

 チーム一丸となって集中して戦うなかで、選手本人が自分でも信じられないような力を発揮する場面を見ると、見ている側にも熱いものが伝わってきます。

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  甲子園の高校野球は今年で100年目を迎えたということで、テレビでは試合の合間にかつての思い出の試合の場面が流されています。

 

 その後プロになり活躍した選手の試合が多く取り上げられていますが、プロが注目するような選手がいるわけでもなく、優勝候補でもなかったチームの大活躍は、地元だけでなく全国の高校野球ファンの記憶に長く残ります。

 

 近年の中でその代表格は、2007年の夏の甲子園で優勝した佐賀北高校ではないでしょうか。

 

 公立高校が成し遂げた快挙として、当時“がばい旋風”と呼ばれました。
決勝戦の広陵高校との一戦では、3点を追う8回裏に野村祐輔(現・広島)、小林誠司(現・巨人)の黄金バッテリーから3番の副島君が逆転満塁ホームランを放ち、奇跡の優勝へと導きました。

 

 この副島浩史選手は、福岡大学に進学し、九州六大学リーグで大活躍しましたが、その後社会人野球等からの誘いを断り、地元の佐賀銀行に就職しました。

 

 しかし甲子園で優勝した時の投手だったチームメイトの久保貴大(現・佐賀北監督)が社会人野球を辞め、佐賀大の大学院に通いながら高校野球の指導者を目指すことを知ります。

   それをきっかけに、2014年に佐賀銀行を退職し、教員採用試験合格を目指す道へと踏み出します。

 

 そしてこの春、佐賀県立唐津工業高校の野球部副部長に就任しました。
かつて甲子園を沸かせたレジェンドが、再び高校野球の世界に戻ってきたのです。

 

 高校球児のその後の道は、人それぞれでしょうが、多くの球児達は野球に打ち込んだ経験が、その後の人生の核になっているのでしょう。

 

 副島浩史さんの高校野球指導者就任は、そんな思いになる印象的なニュースでした😊。

 

今年はお盆に帰省しません

   今日は旧盆の中日で、田舎では初盆(新盆)の家では親戚・知人や地域の人達の弔問で大忙しになることでしょう。

 

   今年はお盆期間に帰省しません。とはいっても実家は新盆(7月)ですので、もう終わっています。

 

 昔から夏の休みは8月のお盆の週でした。実家の7月のお盆の時には、仕事が忙しく休みは取れませんでしたので、8月の旧盆の時に帰省していました。

 親戚の家は旧盆がほとんどでしたので、帰省すると親戚の家にお線香をあげに行き、従兄弟たちと久々に顔を合わせ近況を知らせ合うのがお盆の過ごし方でした。

 

 しかしここにきて、親戚の親世代はほとんどが亡くなってしまい、両親ともに何とか無事なのは、我が家くらいです。

 初盆が終わると、親のいない実家には皆帰ってこなくなりました。実家に帰っても親戚の家を訪れる機会も少なくなってしまいましたので、交通渋滞の中を無理に帰省する必要もなくなってきているのです。

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   しかし先祖の霊に無関心かというと、そうではなくお盆やお彼岸に限らず、帰省するたびに墓まで行き、掃除をして手を合わせるようにしています。

 

 若い時にはそこまではやらなかったのですが、年を重ねてくると先祖の霊に向き合うことが大事に思えるようになってきたのです。

 

 老い先短い両親を、先祖の霊が迎えに来る時が、刻々近づいているという思いも、お墓を気に掛けるようになった理由なのかも知れません。

 

 数年前、定年後に「毎日が日曜日」生活に憧れて、7ヶ月ほど気ままな生活を送っていました。そろそろこのままではいけないと思っていた矢先、今お世話になっているNPO法人の理事長から声がかかったのです。

   この時も実家に帰っていて、お墓参りをして帰ってきたところに、携帯に電話が入ってきました。

 

 なにかご先祖様から「もうひと頑張りするように」と背中を押されたような気がしたことを覚えています😊。

 

60歳から65歳までの過ごし方

  某地方銀行に定年後も延長して勤めていた従兄弟が、今月いっぱいで退職するといいます。

 初盆のご仏前の品を送ったのですが、そのお礼の電話がきた際に知らされました。

 

 一昨年定年を迎えたので、いま62歳のはずです。

 相次いで両親が亡くなり、実家の整理なども手付かず状態だったので、しばらくはそのために時間を使うのでしょう。

 

 ただ65歳まではあと3年ありますから、いずれ仕事を探さねばなりません。

 

 彼のように60歳定年後、そのまま勤務延長で働いている人は現在沢山います。65歳まで勤めていければいいのでしょうが、色々な理由で途中で辞める人も多いのではないでしょうか。

 

 辞めた後、次にどんな仕事を目指すかを決めるのは、意外と簡単ではありません。

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  これまで培ってきた能力・キャリアを活かしたいとは誰でも思うことですが、自分の希望する職にマッチする求人は、この年代層では非常に少ないのが現実です。

 

 また希望する報酬も、意に沿う額とは程遠いものになるでしょう。

 

 私も経験したことなのですが、60歳で定年を迎えた後、生活費の中味の見直しをしないと、それまでの生活レベルを下げることは思ったより難しいものなのです。

 

 よって生活レベルを切り詰めて、貯蓄を取り崩さず生活していくには、どの程度の収入が必要か、もう一度見直しをしなければなりません。

 

 65歳前から貯蓄を取り崩す生活に入ることは、絶対に避けなければなりません。

 

 人生百年時代といわれる現在、長い長いその後の人生が待っているのですから…。100歳まで生きるとした場合、貯蓄取り崩し生活が20年とすれば、80歳まで何らかの収入の道を考える必要があります😢。

 

 幸いなことにこの年代(60~65歳)は、持病があれば別ですが、健康であれば肉体の衰えはそれほど感じない年代です。

 

 また働く環境も、人手不足状態が続き、高年齢層の職探しに追い風が吹いています。

 

 その後の人生により余裕を持たせるために、もう一度発起して働くことが大事です。

 例えば月報酬20万円で1年間働くと、65歳からの年金支給額は年1万4千円程度増やすことができます。

 

 60歳から65歳までは、このように自分に叱咤して働き続けながら、その後の長い人生に備え、生活スタイルを見直し続ける期間になります。

 

 でもささやかな楽しみを見つけて、潤いを持たせることもお忘れなく😊。